「親のせいで自分はこんなにも生きづらい人生を送ってるんだ。」
このように考えたことがある方はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

はじめまして、とこたんです!
よろしくね☆
子ども時代はずっとカースト最底辺で生きてたよ☆
私は4歳から24歳までの約20年間、どうしても外では喋れない・無表情という「場面緘黙症」で、とても生きづらい子供時代を送っていました。
現在は克服して自分に素直に生きられるようになり、とても気楽な生活を送れるようになっています。
私は場面緘黙症の完治に成功した後、
「何故私はこんなことになってしまっていたのだろう。」
という自分自身の謎を解くべく、様々な本を読んでいました。
自分の謎を紐解く中で、次に私に降りかかった困難は
「母親のせいで私はこんなにも生きづらい人生を送ってるんだ!」
という母親に対する強い恨み感情に支配されたことでした。
今回は自分の過去の経験から
「母親のせい」という強い恨みの気持ちの原因と、そこから学んだことを解説していきたいと思います!

周りの友達のお母さんの子どもへの接し方と自分の親を比べてしまって
20代半ばからずっと自分の環境を辛く感じてしまっていました・・・
- アダルトチルドレンの知識アリ
- 親に囚われて自分の人生と向き合えない人
- 子育て中の親御さん
私は本来母のことが大好きだった
子どもの頃は外ではおしゃべりも表情も作ることができなかったのですが、家の中では安心しきっていて超お喋りでよく笑う子どもでした。
それは、母には感情のアップダウンがなく、家庭環境に大きな刺激もなく安心できる場所だったからです。
しかしその母には、嬉しい、楽しい、悲しい、寂しい、つらい、というあたりまえの喜怒哀楽の感情表現が一切欠けていたのです。
- イメージは「綾波レイ」逃げ恥の「ヒラマサさん」
- 専業主婦
- 家事育児について文句を言うことゼロ。
- 朝昼晩きっちり食事を準備する。
- 年中読書をしている。
- 私が何か失敗をしても無表情で無視をする。
- 私が何か賞をとってもテストで1番をとっても何も声を掛けない。
- 私が何かできるようになっても何も声を掛けない。
- 人に共感をすることが一切ない。
- 都合が悪いときは無表情で一切声を発さない。
つまり、一体何を考えているか傍から見たら一切わからない母だったのです。
私は母親から「がんばったね」「つらかったね」「よくできたね」「すごいね」「どうしたの?」など声を掛けられることが一切ありませんでした。
悪く言うと精神面で完全に放置されていたのです。
私が学校で全く喋らない事実も完全に無視をされてきていました。一度も触れられたことがないのです。
そのため、外で喋れない事実を私は母に知られることを常に恐れており、
通知表を見せる時・家庭訪問がある時・授業参観がある時
この時は毎回恐怖を感じていました。
母は何か事情を聞いてくることも全くありませんでした。
私が喋っていない事実に直面した時は母はいつにもまして無表情になるので、私は家ではお喋りでうるさくしているのに外で喋れないことが母にとって都合が悪く、そして母に嫌われるのではないか、嫌味を言われるのではないか、とその度に絶望感を感じていました。

思っていることを全く口に出さないから心の中で文句言われているのかもしれないと思って怖くて仕方がなかったよ
しかし私はそれでも母のことが大好きでした。
それは母に何か質問をすれば必ず手を止めてちゃんと答えてくれ、
誕生日には私の大好きな納豆巻きを作ってごちそうを出してくれ、
家には赤ちゃんの頃からの成長の写真をアルバムにして置いてあったり。
私はきっとお母さんに好かれてるに違いない。望まれて生まれてきたに違いない。とずっと信じてこれていたからです。
私は母の心の支えなんだと信じていた
私の母の母親(私の祖母)は死別による再婚の母親でした。
母は弟が下に二人いる3人兄弟の長女です。
実家は1からスタートした自営業だったため、とても忙しかったようで、死別後にすぐに新しい母を迎えています。
私が物心ついた頃から、祖父母は母のいないところで、私に母の亡くなったお母さんの話や母の子供の頃の話をしていました。
「本当のおばあちゃんは亡くなっているから別におるんよ~」
「あんたのお母さんは、成人式に立派な着物を準備したのに着てくれんかった。とても高かったのに」
「あんたのお母さんは、結婚できると思わなかった。外で挨拶もしないと、なんも言わんのよ」
「あんたのお母さんは、小学生でもおねしょしちょったん」
私は子ども心に、母は子どもの頃、家が忙しすぎて寂しい思いをしてたんだろう。お母さんが亡くなったことでとてもショックを受けていて孤独な気持ちをずっと感じていたんだろうな。
と母のことを気にかけていました。
その事実があったので、なおさら私は母にとってきっと心の支えに違いない!望まれて生まれてきたんだ!お母さんの味方に私がなるんだ!と強く思っていたのでした。
- 建具屋の自営業の娘
- 母の父親は仕事大好き人間の職人だったため、家のことは放置
- 三人兄弟の長女
- 母の母親はとても酒飲みだった。おそらくアル中
- 母の母親は高校生の時に逝去(病死なのかは謎、母にメールで聞いたことがあるがスルーされた)
- 一周忌も経たずに新しい母親が来ている(父一人で子ども3人の面倒が見きれないからと、親戚が近所の30半ばで未婚だった義祖母に頼み込んで結婚してもらったらしい)
大好きから恨みに変化したきっかけ
上記で述べたように、私は母のことが大好きで、母の心の支えになるんだ!と強く思いながら育ちました。
大好きから恨みに変化していくきっかけは3つありました。
私は20歳から親元を離れ、仕事のため東京で一人暮らしを始めていました。
初めての一人暮らしで私が家を出たことで、母が寂しくならないかという思いから東京生活を始めてから毎日欠かさず母に一通、メールを送っていました。
母も必ず返事を毎日くれていたので、メル友のような感じで私はプライベートの話や、仕事のこと等いろいろと話をしていました。
そんな関係に少しゆがみが生じてきたのは23歳の時でした。
初めて自分が学校で喋れなかったことについて母に話をしたのがきっかけです。
「私はもしかして場面緘黙症だったんじゃないかな。調べたら書いてあったのを見つけたよ」
私はそれまではこの話をすることにとても抵抗を感じていましたが、ネットで自分の症状をググった時に症例が出て、救われた思いから、母に報告ができたのです。
この時私は母から初めて慰めの共感の言葉をかけてもらえるのではないか。と期待をしていました。
しかし私の期待はあっけなく裏切られたのでした。
「そうかもしれないけど友達もいたから大丈夫だと思ってた~」
「お母さんも子どもの頃そうだったけど大人になったら治ったし」
そう返事をされたのでした。
私はずっととても辛かったのに・・・。
どうしていいかわからずずっともがいていたのに・・・・。
助けてほしかったのに・・・・。
両親から見て見ぬふりをされ続けて、自分が喋れないことがすごく悪いことのように感じていて、誰にも言えず一人でずっと抱え込んでいたのに・・・・・。
ショックで私は涙が止まりませんでした。
人の話を聞こうとしない。理解しようとしてくれない。母と私は違うんだよ!決めつけるな!
私はそれでも母のことは嫌いになることはなく、母の日にはおいしそうなスイーツを贈ったり、母の誕生日にはプレゼントを贈ったり、メールを一日一通必ず送ることもずっと続けていました。
24歳の頃のことです。
私の母は当時一人でバスツアーでハイキングに行くことを趣味としていました。
私の勤めていた職場は仕事が一段落すると今までの休日出勤分を全部解消することができるところだったので、その長期休暇の度に実家に帰省していました。
その際、母と二人で一緒にバスツアーハイキングに行くことがありました。
当時の母は子どもの頃の母とは違い、無表情ではなくなり「基本が穏やかな表情」に進化しており、私は自分が自立してちゃんと働けていることが母に安心感を与えているんだ!と思っていました。
昔の母とは違う。毎日メールをしてメル友のような関係だ。きっと私はお母さんから好かれているに違いない。
そういう思いと安心感から、私は子どもの頃に母からの拒絶を恐れて甘えたくても甘えられなかった感情を取り戻すかのように、ハイキング中に子どものように無邪気に母に甘えたのです。
しかし母は私の感情を受け入れることなく
「甘えるな!」
そう言って私の手を払いのけたのです。
私はものすごいショックを受け、その後母に喋りかけることができませんでした・・・・。
私は母から可愛がられたい。ずっとそう思っていたんだ・・・。悲しい・・・・
そんなショックを受けても、それでも私は自分が成長するとともに母が穏やかに変化していってることが嬉しくて私は母の心の支えでいるんだ!という気持ちはまだまだなくなることはありませんでした。
私は会社に5年勤めた後、結婚を機に退職しました。
その頃にはすっかり「人の目を気にして喋ることができなくなる」なんてことも解消され、私の場面かんもく症時代は終わりを迎えていました。
退職後、パートナーの転勤で東京を離れ、転々とすることになりました。
私は在宅で仕事を続けながらパートナー以外知り合いがいない環境で日々を過ごしていました。
そんな生活の中でも、私は毎日必ず一通、母にメールを送ることを続けていました。
結婚しても変わらず母とメル友のような状態が続いていたのです。
当時の私は結婚はしたものの、どうしても子どもを欲しいという感情が沸き上がってこず、それについて悩んでいました。
何故かというと、地元の友人たちは口をそろえて子どもほしい~という話をし、
私の後に結婚した知人たちは当たり前のようにどんどんと家族を増やしていっていたからです。
また、2年も経たずして、両親から「子どもは?」と聞かれて素直に答えられなかったことも原因です。
私はどうして周りの人たちみたいに心の底から子どもを欲しいと思えないんだろう。
そうして周りと比べることでどんどんと自分の気持ちに自信を無くしていきました。
そんな悩みから私はなぜ母が私を生んだのかとても知りたくなり、メールを送りました。
私はきっと望まれて生まれてきたに違いない!
私は母にとって心の支えで、そのために生まれたに違いない!
この20年以上信じていたことを確かめられたら私の気持ちは何か変わるかもしれない!
そう期待を込めてメールを送りました。
「お母さんはどうして私を生んだの?」
しかし、またしても私の期待は裏切られたのです。
「猫飼ってたしそのついでだよ」
「子どもなんて大して世話しなくても勝手に育つから大丈夫だよ」
「みんな深く考えて子どもなんて生んでないよ」
「お母さんはポジティブだからね」
母は子どもが欲しくて私を生んだんじゃないんだ・・・・
私はとても悲しくなりまた涙を流しました。
私は場面かんもく症をほったらかしにされ続けてこんなにつらい子供時代を送ってきていたのに・・・。何が「大して世話しなくても」だよ。
私の気持ちも何もわかってないくせによく言うわ。ポジティブ?私と母は違うんだよ!私は絶望感がずっとすごかったよ。
最初からこの世に誕生してなかったらこんなつらい目にも遭わなかったのに・・・。
せめてお母さんが望んで私を生んだと言ってくれたら救われたのに・・・・。
絶望。
こうして私は、これがとどめとなり、それ以降母に連絡を送ることを一切やめました。
母の日も誕生日プレゼントも贈ることを辞めたのでした。
また、実家に帰ることもしなくなりました。
ちなみにそうしたことで母から何か言われることも、母から連絡が来ることも一切ありませんでした。
この状態が約6年続きました。
この経験から学んだこと
母に期待しすぎていた分だけ私はショックを受け、そしてそこから様々な本を読んだうえで、今までの辛かった体験が母の「感情を無視すること」が原因だったことにまで気づき、母をとても恨むことになりました。
しかしいつまでも恨んでいたわけではありません。
母含め実家と連絡を絶った私は、それから一切母の影響を受けなかったためか、逆に冷静になれてきたのです。
母と子どもは血が繋がっていようが違う人間だ。
母がそう(思う)だからって子どももそう(思う)とは限らない。
逆もしかり。
「私がこう思うからあなたもこう思うはず!」
これに囚われることに注意するきっかけにもなりました。
人の感情をまず受け入れず、自分の意見を押し通すことがいかに人の気持ちを踏みにじることかよくわかった。
人の話を聴くときは、必ずまずは受け止めて、それから意見を言うように注意しよう。
「うん、そうだね。」この一言がどれだけ人の心に寄り添って見えるか、私は実体験から深く考えるようになりました。これを自然と言っている人に出会うと、私はとても感動します!
理解してもらおうなんて期待することがそもそも時間の無駄だったんだ。
母の本質は変えられない、ならば私が傷つかないように変わればいい。
母は私に一切連絡をしてこないのです。
私がアクションを起こさない限り何も言ってきません。
ここまで子どものことを放置できるメンタル、逆にすごくないか?とさえ最近思います。
周りの友人は過干渉な親が多い中、うちは真逆だからです。
ちなみに私は子なし離婚をしていますが、親に何も言わず勝手に離婚をしています。
まとめ
私はこうして完全に精神的にも自立をするということろまで来れました。
親の意見に左右されることがあほらしくなったのです。
と同時に他人の意見に左右されることもあほらしくなったのです。
今では場面緘黙症になったことも全てのことが結果オーライだったなと思えています。
もしかしたら母の狙いはこれだったのかな?なんて都合よく解釈しています。
「親のせい」これに囚われている人は、親から完全に距離を取り、自分の人生に関わってこないようにするのが手っ取り早いのではないのでしょうか。
そんなことできない!って思うあなたは親から洗脳されてますよ。笑

親の意見に振り回されて、自分の人生と向き合わない・・・
なんてことにはならないようにしようね!
私の経験が参考になれば幸いです。
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